京大、工学部から留学を目指した話と英語勉強法

研究者である父を見て育った。


理科に興味があって、将来は単純に研究者になりたいと思っていた。


理系の高校に進学したが、テニスに興味を持った。


「やればやっただけ結果が出る世界」に興味を持った。


2年の夏からおよそ1年、全てをテニスに捧げてみた。


朝4時半に起きて新聞配達をして、5万円を得た。


それから土日にアルバイトでこれまた5万円、合計10万くらいを得た。


土日はホテルの配膳人をやっていた。


入った時、「いいからここに18歳って書いて」
と言われたので素直に書いた。


当時17歳だった。


今思えば、配膳人派遣会社の違法行為だった。


ホテルの配膳人の給料は割と良かった。


4時間で5600円、8時間で1万円くらいもらえた。


12時間入ると1.5万円くらいもらえたが、
こんなシフトは一度も組んでもらわなかった気がする。


数年以上働いた先輩だけがそうした仕事をもらっていた。


ともかく、1日1万円貰える仕事は自分には割が良かったし、嬉しかった。


3年の夏、全てをテニスに捧げてみた。


今マガジンで「Baby Steps」というテニスマンガがやっている。


主人公は俺と同じく高校からテニスを本格化し、フロリダに留学していた。


あれは金銭問題を抜いて描かれているから良いけど、
通常は金銭的な理由で無理のはずだ。


俺も高校を退学して、
朝から晩までテニス漬けの生活を5年くらい送りたかった。


親の意思でテニスを始めた人が良く練習のきつさに
バーンアウトになったり、ホームシックになったりするが、
当時の僕に環境を与えたら、実力はともかく、
そうしたバーンアウトとは無縁だったろう。


ともかく無限の情熱というものがあった。


1日5食食べた。
昼に吉野家の牛丼を並盛で2杯食べた。
先輩に、2杯同時に頼むんじゃなくて、
1杯食べ終わってからもう1杯頼むと、
アツアツで食えるぞと教えてもらってからそうした。


朝ご飯をパン5枚程食べて、昼は吉野家で2杯食べて、
その後15時頃また食べて、その後晩御飯と夜食を食べた。


友達に、2012年12月15日に沖縄の宮古島に行った写真を見せると、
「体鍛えてるの?」と言われるけど、
後にも先にも高校2年の夏から3年の夏まで本気で1年テニスをやっただけ。


その時から体型は変わっていない。


たぶんこの時に限界突破というのを突き詰めていたから、
普段から軽く体がアイドリング状態になるので、
勝手にエネルギーが消費されるのだろう。


身長も肩幅もほぼこの時今の形になった。


身長は1年で10cm近く伸び、180cm近くなった。
体重も増えてヒザが成長痛で痛かった。


テニス肘ならぬテニス膝と冗談を言っていた。


もっともっと、と環境を追求した。


テニスは部活と、部活終了後は19時から23時まで、
平日は毎日、
テニスの社会人サークルみたいなところの練習に混ぜてもらっていた。


21時頃終わった時は、公園で素振りをしていた。


今いる親友と呼べる一人もこの時出来た。


駅のホームで傘をパッドに見立てて
ゴルフの素振りをするおっさんを見ながら、
俺達はふと折りたたみ傘でテニスのフォアハンドのストロークを真似た。


今でもふと部屋で受験勉強や仕事をしていると、
無性にラケットを素振りしたい衝動に駆られる。


この時の名残りだ。


23時半に帰ってきて、24時頃寝て4時半から新聞を配った。


土日はホテルで配膳人として働いた。


6時に新聞を配り終えてから2時間程、
暖房の前でうとうとと仮眠を取ってから高校に登校した。


環境が足りなかった。


それと、社会人のサークルは、どうしても趣味的になっていたので、
走り回ったり、振り回したりといった
高校生独自の上達法みたいのが無かったので
体力的に有り余っていて不足を感じていた。


3年の夏、高校の練習仲間を求めて、
大阪のとある有名なテニススクールに入った。


そこでは、当時インターハイ7位のやつとかがいた。


始めたのが遅かったとしても、
とにかく伸びしろだけでは負けたくなかった。


練習しかないかと思っていた。


それで、朝は新聞、土日はホテルの配膳人と、
アルバイトを極限まで効率化して、
授業は全て寝て過ごし、極力体力の温存に努めた。


2位だった成績は6位まで落ちた。


残ったお金を全てテニスに賭けた。


高校の夏、
高校生のトップ集団のいるテニススクールに入って気づいてしまった。


彼らはふと、隣のコートで、専属コーチと、1面丸々使って、
練習試合をしていた。


俺らは、1コート6人とかで、振り回しの練習とかだった。


土日は彼らは、その専属コーチ、時としてトレーナーと、
練習試合や試合に出場していた。


俺はバイトをしていた。


俺は練習環境として負けていた。


そしてその1ヶ月だけで、テニス関連で10万以上かかった。


俺はバイトを増やす必要があった。


しかし、彼らは親に毎月30万とかかけてもらってテニスをしていた。


それに気づいた時、テニスを止めた。


●TOEICで900取る

ともかく、体力的には無限に疲れず、
もっと毎日へとへとになるまで練習したいのに、何もかもがぬるかった。


学校の授業も、1年で入学して、
特に努力せずトップクラスの成績を取ってしまって、
がっかりして情熱を無くしてからはほどほどにしかしなかった。


3年の授業はほぼ寝て過ごした。


仲間が欲しかった。


そして冒険がしたかった。


それで、テニスの次に留学に情熱を向けてみた。
留学したいと親に掛け合ったが、アメリカの大学を普通に卒業するまでに
600万は要りそうだということで無理だった。
(ちなみに、アメリカの大学生は教育ローンを組んで大学に通うのが普通で、
若年者の教育ローン返済問題はアメリカ政府の問題になっている。)


それなら、奨学金しか無い。


とりあえず、最低限英語力だけ付けておこうと思った。


高校卒業までに、TOEIC900目指した。


とりあえず英語の学習法に関する本を20~30冊程読んでみた。


「超・英語法」というのと「英語は絶対、勉強するな!」というのの
悪いところと良いところを分析して、丸暗記法というものにたどり着いた。


これは良い方法を思いついたと思ったら、
後から神田昌典も似たような手法を考案していてそれを本にしていた
英語の近道)。


ともかく、そういう本も無かったけど、
当時は丸暗記法がよさそうだと思ったので、
とりあえず
TOEFLテスト基本ボキャブラリー2000語

TOEFLテスト完成ボキャブラリー2000語
というのを全部CDを聴いて聴きとって、
それをノートに取って発音してみた。


確かノートで10冊か20冊くらいになった気がする。


それを9割暗記して、ほぼそらで音読できるくらいまで覚えこんだ。


そこまでやったところでタイムリミットが来た。


確か300時間くらいは勉強したはずである。


TOEIC660だった(リスニング400、リーディング260)。


奨学金の前段階の英語力で躓いた。


日本の学生は、受験勉強の出来ない金持ちが逃げとして
アメリカの大学にお金を払って行く事はできても、
正当に奨学金を得て留学するのは、学部においては難しい。


仕方ないから学部時点での留学は諦めた。


ちなみのその後も英語は勉強を続けて現在までで900超えを達成した。

僕が、TOEICで900点を超えた勉強法をまとめました。

あと、僕が作ったコンテンツをまとめてみました。
↓↓↓

加藤の無料コンテンツ集

加藤将太の無料コンテンツ集

2024.10.11

ちなみに、学費が無料のドイツの大学も考えたが、
やはり英語圏が時間的に英語も習得できるかと思い、
カナダの名門・トロント大学か、どこかの州立大学
(ハーバード等を除くと、各州のトップ大学にあたる)に行きたかった。


その頃こんな画像をプリントアウトして、部屋の壁に飾っていた。
20120908-190421
 

 

 

 

 

 

 

 

 

この夢は叶わなかったが、大学3年の夏にUC Berkeleyというところに
1ケ月ほど短期留学(遊学)する機会を得た。


起業前にプリントアウトしたベンツの写真は、
そんな写真をプリントアウトしたことも忘れた1年後に手に入れていた。


それと、何故かEクラスというところも一致していた。


ともかく、学部での留学が無理なら大学院から。


大学院で、工学部なら奨学金をもらいやすい。


有名大学なら尚更。


ということで京大を目指した。


●京大、工学部&MBAのダブル受験

京大に入った。


とりあえず留学は、GPAと言って、
京大生のうちに「オール優」みたいな感じで卒業しとけば、
留学のオファーが貰えて、
奨学金(授業料タダ+生活費15万円)みたいなのが貰える可能性が
割とあるみたいな情報を得た。


だからとりあえず優を増やそうということで、勉強に精を出してみた。
専門科目はだいたい優が取れた。


ちなみに、勘違いされることがあるかもしれないが、
アメリカの大学は卒業が難しいといわれるが、
日本のちゃんとした大学の工学部の学生は学力で劣っていない。


というか、アメリカより優を取るのは難しい。


本当である。


試しに、UC Berkeleyの物理学の授業に潜り込んでみたが、
日本の最優秀の高校生なら普通に理解できる内容である。


(ベクトル解析の初歩みたいな授業も入っていて、
それは高校の授業の範囲外だけど、
そんなの最優秀の理系高校生ならすぐ理解できる。)。


そんなこんなで何とか留学できるかもしれないくらいのところに来た。


はたと考えた。


今まで、興味性だけで理系を追求していたけど、
当時の僕には、社会性というか、生きる意味みたいなのを
考察するような思春期を過ぎた年齢にあった。


そこで考えたこと:
「今まで工学部(電気電子工学科)で、デバイス、例えばMDを小さく、
コンパクトに便利にするような研究をしてきた訳だが、
もうMDって、充分小さいよな?


それが人の幸せに直接貢献するのか・・?」


当時はリーマンショックの前とは言え、
失われた10年とか言って、日本の景気は良くはなかった。


それで、俺が工学部で研究者になって、
何人が幸せになるのかなーと考えたのである。


あと、俺は世の中に対するインパクトを与えたい分野として、
教育にも興味があった。


ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)という
戦略コンサルティングファームに内定した友人に相談したら、
「教育を産業界から変えるアプローチとして、
MBA(経営学修士)というのもあるよ」
と言われた。


俺はその一言が気に入った。


MBA(経営学修士)を調べてみたら、
ハーバード・エール大学とかのアメリカのMBAと、
京大にもMBAがあるらしい。


調べたら、外国のMBAを取るのは500万とか普通にかかった。


理系の裏ワザ・研究者としての奨学金もここでは使えない。


それで、京大なら学費50万とかでMBA取れる。


MBAについて考察した。


アメリカのMBAで得られるもの(企業から見て)

1:経営管理の知識
2:英語力(とその証明)
3:激務耐性(まぁこの人頑張りそう)
4:人脈(?)
5:有名大学を出たら、ハクが付く(おぉ~あのハーバードですか)

実は2:~5:がメインだと。


2:と3:は日本で独学しても、何とかなるだろう。


4:は良くわからないが、大事なものとも思えない。


5:はまぁ眼をつぶろう。


あと、留学者側のメリットとして
「楽しい」とか「何かやったった感がある」というのもあるけど、
まぁ日本の大学でも自分次第だろう。


それで、京大のMBAを受ける事にした。
試験まで1ヶ月だった。


とりあえず、高校から7年続けた理系の集大成(?)的に、
卒業記念的に工学部を受けた。


これはあまりやる気がなかったので、3日だけ勉強した。


あとMBAは1ヶ月程勉強してみた。


いろいろ迷って、
あと1年ゆっくり準備した方が自分のためになるんじゃないかと思ったけど、
何故か合格をもらってしまったので運の良いうちにそのまま進学した。


そこではいろいろ起業の準備段階となる活動を経験することになる。


・・・大学院~起業編に続く、かも(気が向いたら書きます)。

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